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名指揮者 カール・シューリヒト


当然ながら・・・指揮者自身は、音を出しません。

指揮者は、作曲者と聴衆の中間にあって、楽曲を解釈し、オケを統率し、音楽を再現します。「再現芸術をオケという一大楽器をもって成し遂げる演奏家」と言ってもいいでしょう。

譜面通りの演奏とは何でしょうか?
譜面には最低限の約束事しか書いてありません。指揮者が心の眼で譜面の行間を読み取り、楽曲に潜む心に共感・感動し、音のイメージとして再構成することがなければ、実につまらない演奏になります。機械にでも、演奏は出来ますから・・・。つまり、楽曲の解釈と再現力(オケを纏める力)がなければいけないのです。

指揮者って、実に大変な仕事です。

同じ曲でも、指揮者によって全く異なる曲に聴こえることはよくあります。指揮者によって、解釈の仕方が随分と違う証左ですね。指揮者の心・感性も百人百様、受け止めるものが違えば、解釈も異なるという訳です。

作曲家が何を言いたかったか、身を挺して再現して見せてくれる・・・献身的な音楽家こそ、本物の指揮者ではないでしょうか?

私が、その第1に挙げたいのが・・・カール・シューリヒトです。

以下、ドレル・ハンドマン (Dorel Handman)氏の言葉を引用しておきます。
・・・
張りつめた静寂の中に、最初の音がおこる。
そうして、カール・シューリヒトの芸術が、自由に、天の啓示に従うかのように繰り広げられてゆくのであった。

このような演奏会は、はじめての経験だった。彼の中で、ある一つの存在が、他の一つあるいはいくつかの存在に転化したのではなくて何であろう。しかもそれだけでは満ち足りず、楽員はもとより、その場に居合わせたすべての人を、その変身に参加させ、彼とまったく同様の体験をさせずにはおかない。確かに魔法は行なわれたのだ。
もしそんなものがあるとするなら白い魔法とでもいおうか。何よりもまず私の心を打ったのは、音によって表現されている、すばらしく透徹した精神であった。それはどんな偽善をも許さない芸術であった。あらゆる問題点に最も明快な解答が与えられており、非常に複雑な楽譜が明瞭なものになっていた。

楽譜を絶え間なく推し進めてゆく、たぐい希な彼のエネルギー―音楽の勢いを撓めることはないが、そのテンポに緩急をつけてゆくあのフルトヴェングラーの力とは、何とちがうことか。様々な本質を、互いに補い合い、たかめ合う方向へもってゆくことが、精神に許された貴重な特権の一つなのである。

ルバートは殆ど使わず、ひとつとして不要なリタルダンドはなく、<スタイル偏重>による犠牲など全くない:明解な運びと論理的な構成。しかも、ブルックナーの交響曲第7番の冒頭、第1主題の第2小節に現れる短いラレンタンドは、3度の間隔をもって、丁度良い長さだけ、溢れるばかりの優しさを表現し、リンツ交響曲の第2楽章の主旋律は、純粋と感覚の織りなす光の綾の中にただよっている。そして、ブラームスの交響曲第4番は、暗く傷ましいメランコリーに貫かれている。

巧まずして偉大さを表現し、情熱を省くのではなく抑制し、常に作品の魂を追ってやまない。

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コメント

No title

情熱を省くのではなく抑制、実は難しいのでしょうね。シューリヒトの音楽にはその難しさと深さを知るような気がします。

No title

Jinさん、仰る通りですね。ミケランジェロの彫刻の様な世界だと思います。

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